🚂 第3回:鉄道と農業が拓いた近代ケアンズ(1900〜1945)
ケアンズが観光都市として知られるようになる前、街の基盤を支えていたのは「鉄道」と「農業」でした。20世紀初頭から第二次世界大戦終結までの約45年間にわたり、ケアンズは物流インフラと生産活動を中心に大きな変革を遂げました。本記事では、その歴史的背景と発展の流れを紐解いていきます。
鉄道網の整備と都市機能の強化
ケアンズにおける鉄道建設の始まりは、1886年のHerberton(ハーバートン)方面への路線からでしたが、1900年代に入ってから本格的な拡張が進行しました。とりわけ1924年に開通した「ノース・コースト鉄道(North Coast Railway)」は、ケアンズと州都ブリスベンを直接結ぶ大動脈となり、物流と人の移動を一気に近代化させました[1]。
この鉄道の完成によって、鉱山資源や農産物の大量輸送が可能になり、ケアンズ港と連動することで、ケアンズは北部クイーンズランド州の物流拠点としての地位を確立します[2]。
さらに、この時代には「キュランダ高原鉄道(Kuranda Scenic Railway)」も整備が進み、後の観光資源としても重要な役割を果たすようになります[2]。
サトウキビを中心とした農業の発展
鉄道の整備と同時に、ケアンズ周辺では農業の商業化が加速していきました。特にサトウキビ栽培は地域経済の柱となり、鉄道網と直結した製糖工場との連携で効率的な生産体制が築かれました[2]。
また、アサートン高原(Atherton Tablelands)やマリーバ地区(Mareeba)では、バナナやパイナップル、マンゴーなどの熱帯果実の栽培も拡大。これらの農産物はノース・コースト鉄道を経由して州内外へと出荷されました[3]。
これにより、ケアンズは単なる港湾都市ではなく、「生産・輸送・販売」が一体となった農業モデルを実現した地域として注目されるようになります。
多様な移民と地域コミュニティの形成
農業や鉄道建設の労働力を支えたのが、多国籍の移民たちでした。イタリア系、ギリシャ系、中国系、そしてメラネシア諸島からの人々がこの地域に移住し、主にサトウキビ農園や鉄道工事に従事しました[2]。
彼らは自身の文化を地域社会に根付かせ、教会やコミュニティセンター、食文化などを通してケアンズの多文化社会の基盤を作り上げていきます。現在のケアンズで見られる国際色豊かな雰囲気の原点は、まさにこの時代に形成されたと言えるでしょう。
戦争と軍需都市ケアンズ
第二次世界大戦が始まると、ケアンズの戦略的価値は一気に高まりました。1942年、アメリカ軍がケアンズに大規模な軍事基地を設置。太平洋戦線の兵站(ロジスティクス)拠点として、物資と人員の輸送が集中しました[1]。
ケアンズ港は軍艦や物資輸送船で埋め尽くされ、鉄道は内陸部や他都市への迅速な輸送手段として活用されました。これにより、ケアンズの港湾・道路・通信インフラは急速に整備され、戦後の民間利用にもつながっていきます[1]。
まとめ:近代化の礎を築いたインフラと農業
1900〜1945年のケアンズは、「鉄道」「農業」「移民」「軍事」という4つの要素が重なり合いながら発展してきました。
これらの要素が相互に作用することで、ケアンズは産業都市から観光都市へと脱皮するための基盤をしっかりと築くことができたのです。
次回は、この基盤の上に立ち上がった「戦後の復興と観光都市ケアンズ」について詳しく紹介していきます。
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📚 参考文献
- Cairns Regional Council – History of Cairns from the 1870s
https://www.cairns.qld.gov.au/experience-cairns/facts-figures-history/history - Wikipedia – History of Cairns
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Cairns - Cairns Chamber of Commerce – 100 Years of History
https://www.cairnschamber.com.au/files/media/original/022/a04/316/CCoC-Complete-History.pdf


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